1000字エッセイ『喫茶店』

「紅茶の美味しい喫茶店」という有名なフレーズがあるが、私は専らコーヒー派である。

休日はバイトに行くか喫茶店に行くためだけに外出する。家にも器具はあらかた揃っているが、昭和の色香残る空間で頂く店主の一杯に代わる至福は無い。


沈み込むソファー席で、手作り感の溢れるメニューを開き、どうせならここの名物にしようか、それとも定番メニューにしようか、などと考える時間が良い。

ちなみに私はブレンドではなく、それぞれの産地の個性が際立つストレートコーヒーをよく頼む。特に香り高く酸味の効いたモカ・マタリが好きだ。果皮が入ったほんのり温かいパウンドケーキがよく合う。
ケーキを三分の二ほど食べ進めたあたりで持ってきた本を開く。そのうち集中が途切れてふと顔を上げると、聴き覚えはあるけれど題名を知らないクラシックや、誰かの煙草の匂い、カップを置く音などがやけにはっきりと印象づけられる。非現実からまた別の非現実に戻されるような、そんな不思議な心地だ。

 

立地による客層の違いを肌で感じるのも楽しい。

有名店が軒を連ねる神保町や高円寺、下北沢では若者が多くを占める。カップルがデートの休憩に訪れていたり、サークル仲間とスマホ片手に談笑する姿が賑やかな雰囲気を形成している。

一方でオフィス街や下町の小ぢんまりとした喫茶店はスーツのシルエットと煙草の匂いで覆われる。商談の隠せない緊張感や、スポーツ紙を真面目な表情で凝視する人の滑稽さ、旧友との思い出話に花を咲かせる和やかな空気が入り混じり、肩肘張らない絶妙な居心地の良さを生んでいる。こういった常連客で細々と続くような店ではバイトを雇っている様子もなく、毎度同じ店主が同じような表情で迎えてくれる。何より店主のこだわりの味をそのまま頂くことができるし、手が空いていると豆へのこだわりを滔々と語ってくれることもある。こうして私は後者のような喫茶店に、半ばお布施のような気持ちで通ってしまうのである。


ところでコーヒーを飲む、という行為には必ず「大人」が絡みつく。若いうちはブラックで飲むなんて大人だね、と言われることが多い。「珈琲」は大人びたものとしての一つのアイコンなのであろうか。
きっといい大人になったら、かつて大人だね、と言われたその一杯で、今立っている大人という地点をぼんやりと俯瞰することになるのだろう。店の片隅で聴いていたワン・モア・カップ・オブ・コーヒーに思いを馳せながら。